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November 25, 2006
周産期医療 五つ子
鹿児島の五つ子の話が読売新聞に紹介されていた。あの当時は「5つ子」ができたということに単純にすごいな~と感心したがいってみれば排卵誘発剤の副作用(医原病)だったわけで今なら許されない。それにしても鹿児島の先生たちはがんばったな~
ひとつ疑問に思うのはこれだけしっかりした周産期医療体制が構築されているはずの鹿児島県に厚労省が認める総合周産期医療センターがないというのは本当なのだろうか?
奈良県立大淀病院に関する報道を読むと以下のように記載されている。
「厚生労働省は、緊急かつ高度な産科救急と母体搬送に対応するため、平成16年の「子ども・子育て応援プラン」で、総合周産期母子医療センターを中心としたネットワークの整 備を、平成19年度中に完了するよう全都道府県に求めている。ただ、奈良県のほか、秋田、山形、岐阜、佐賀、長崎、宮崎、鹿児島の8自治体ではまだ、整備されていない。」
[時流/源流]周産期医療 五つ子の「贈り物」 - 読売新聞 2006年11月24日(金)
◇キーワードでさぐる
妊娠から出産まで、母子を一体的にサポートする「周産期医療」。それを担う医師や病床が不足し、お産の安全が揺らぐなか、鹿児島市立病院は公立で最多の80床の新生児病床を持ち、他県の妊婦や赤ちゃんの受け皿にもなっている。同病院が1978年(昭和53年)、国内初の周産期医療センターを設けたのは、その2年前の「五つ子誕生」がきっかけだった。
◆前代未聞
「3胎(三つ子) 入院予定」
産婦人科医局の黒板にそう書かれていたのを同病院の若手医師だった池ノ上克(つよむ)(60)(現・宮崎大医学部教授)=写真=は覚えている。75年12月15日のことだった。
この日、産婦人科部長の外西寿彦(ほかにしひさひこ)(故人)は出産のため東京から帰省した妊婦を検診した。妊娠8か月にしては、おなかが垂れ下がるほど大きかった。心音は2か所から聞き取れたが、レントゲン撮影で三つ子が確認でき、超音波断層撮影では四つ子の可能性も出てきた。
多胎児の妊娠は母体に負担がかかるため早産になりやすく、未熟児で生まれて死亡したり障害が残ったりする。黒板の文字は、若手医師に心の準備を促す外西のメッセージだった。
五つ子とわかったのは、明けて76年1月7日。外西は早産予防のため妊婦を入院させ、あえて「四つ子」と告げた。
何より大事なのは、母体が心身共に安定していること。前代未聞の五つ子と告知するよりも、国内ですでに数例あった四つ子にとどめた方がショックが小さいと考えた。
直ちに医師10人、助産師2人、看護師3人のチームを編成。母体の安全管理や、胎児が仮死状態で生まれた場合の蘇生(そせい)策を連日話し合った。「記録係、母体担当、新生児担当を決めて2回ほどリハーサルした。だが当時の医療レベルで、5人とも無事に成長してくれるとは誰も想像できなかった」と池ノ上は明かす。
◆ワースト1
それまで鹿児島県は、妊娠28週から生後7日未満の「周産期死亡率」が全国ワースト1。70年の全国平均は1000人に対し21・7人だったが、離島を抱える同県は30・6人に上った。
汚名返上のため、同病院は73年、当時珍しかった超音波断層撮影装置などを備えた未熟児センター(16床)を開設した。しかし75年10月、留学先のアメリカから帰国した池ノ上が最初にした仕事は、倉庫に眠っていた同装置を臨床で使えるようにしたことだった。
この装置が五つ子出産に役立った。胎児の頭の大きさから、無事な成長が確認され、外西は自然分娩(ぶんべん)が可能と判断した。
◆「全員助けろ」
出産は76年1月31日。9分間で5児が次々に生まれる安産だった。第2子と第3子が羊水を吸い込み、仮死状態だったが、気管にチューブを差し込んで羊水を吸引すると蘇生し、それぞれ元気な産声をあげた。
長男、1480グラム
長女、1800グラム
二男、1130グラム
二女、1300グラム
三女、 990グラム
当時、1000~1500グラムの新生児の生存率は20~30%。しかも障害が残る危険性が高く、未熟児網膜症や細菌感染などに警戒が必要だった。
「国内初の五つ子誕生」と大々的に報じられるなか、生後7日目には二女が壊死(えし)性腸炎を起こし、危篤状態に陥った。
「自分の裁量で出せるだけの費用は出す。全員助けろ」。病院に泊まり込んで治療に当たった池ノ上は当時の院長から厳命された。
幸い二女は持ち直し、5月には5人そろって東京の日大板橋病院に転院した。
外西は著書「五つ子くん-その神秘な誕生と周産期医学」で退院時の様子をこう書き記している。
「玄関前に5人のベビーが姿を見せたときが最高潮だった。いまかいまかと待っていた市民の間から『おーっ』という、どよめきの声があがり、『ムゾかあ』(かわいい)の大合唱」
首相だった田中角栄が国会で証人喚問されるなど「ロッキード事件」が政界を揺るがすなか、五つ子誕生は明るい話題を提供した。それだけでなく、当時まだ医学界にも浸透していなかった「周産期医療」という言葉を世に広めた。
◆全国初
「これを契機として、未熟児センターの要員の増加、設備の拡充を図り、受け入れ体制を強化されるよう陳情する」--。76年5月、鹿児島市産婦人科医会が市医師会に提出した陳情書にはこう書かれている。
拡充運動を担った産婦人科病院長、柿木成也(79)=写真=は「開業医では対応できない難しいお産や未熟児の受け皿がなければ、困るのは我々。市議や県議らに懸命に訴えた」と振り返る。
これが実を結び、78年11月、鹿児島市立病院に国内初の「周産期医療センター」ができた。NICU(新生児集中治療室)を備えた新生児センター(40床)と、妊娠合併症などの妊婦に対応する分娩センターを持ち、初代所長に外西が就いた。
全国最悪だった周産期死亡率はセンターの始動により、85年に8・4人(全国平均8・0人)となり、2005年には4・0人(同4・8人)と改善された。「死亡率日本一からの脱却は、五つ子からのプレゼントだった」と池ノ上は振り返る。
80年には2例目の五つ子が同病院で誕生。81年にセンターを増床し、60床に。93年、外西が院長在職中に病死した時は、高校生となった最初の五つ子も葬儀に参列した。
◆署名12万人
一方で同病院の周産期医療センター医長だった茨(いばら)聡(49)=写真=は病床不足に悩んでいた。周産期医療の進歩で、数百グラムの未熟児も生存できるようになった分、治療対象となる子どもが増えた。新生児ベッドは常に満床。県外の医療機関に運ばれる妊婦も増えた。
茨は94年8月、増床の要望書を出したが、市の腰は重かった。救ったのはやはり開業医。97年4月、産婦人科医会県支部の医師が街頭で署名活動し、12万人の署名を県議会などに届けた。
これを機に県が本格的な運営費補助を始め、新生児ベッドは2000年、80床に増えた。医師や看護師も増員された。医師が同乗して治療できる新生児専用救急車も01年に導入した。
今では、県境に住む人を除けば、他県へ運ばれる患者はほとんどいない。一方で、NICUが不足している熊本県などから患者を受け入れる。先進医療を学ぼうと、全国の病院から研修医が集まる。
「いいことだと思ったら皆が集まって一緒に進めていく。市立病院の周産期医療を支えてきたのは、そんな鹿児島の県民性かもしれない」。現在は周産期医療センターの部長となった茨は話す。(文中敬称略)玉城夏子
図=鹿児島県の周産期死亡率の推移
写真=鹿児島市立病院を退院し、東京の日大板橋病院に移った国内初の五つ子(1976年5月12日撮影)
写真=未熟児などの治療が昼夜問わず続く鹿児島市立病院のNICU
投稿者 akiuchi : November 25, 2006 09:59 AM