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December 03, 2006
宇井純氏が死去
今年逝去された方の中に宇井純氏の名前を見つけた。東大自主講座「公害原論」。ちょうど私が大学を卒業する年にアジアにおける日本企業の公害輸出が問題になっていた。直接お会いすることはなかったが東大近くの事務局を訪れて資料を入手した記憶がある。東大では「助手」として一貫して反権力の立場を貫いた。東大物療内科で講師を続けていた高橋晄正死の自宅を訪ねたのも同じころだったと記憶している。公衆衛生学を選択して「公害」をライフワークのテーマにしようと考えていた若いころの思い出とともに宇井純氏のご冥福を祈ることにする。
横浜国立大学中西準子氏のHP
雑感366-2006.11.13「宇井さんありがとう -宇井純さんの死を悼む-」
http://homepage3.nifty.com/junko-nakanishi/zak366_370.html#366-A
沖大名誉教授・宇井純氏が死去
公害問題を追究
自主講座「公害原論」で知られ、沖縄などで多くの公害反対運動にかかわった環境科学研究者で沖縄大名誉教授の宇井純(うい・じゅん)氏が十一日午前三時三十四分、胸部大動脈りゅう破裂のため東京都港区の東京慈恵会医大病院で死去した。七十四歳。栃木県出身。葬儀・告別式は十六日午前十時から東京都品川区西五反田五ノ三二ノ二○、桐ケ谷斎場で。喪主は妻紀子(のりこ)さん。
東大卒業後、化学会社に勤めた後に大学に戻り、一九六五(昭和四十)年から工学部助手。水俣病の調査研究に携わる一方、世界保健機関(WHO)の研究員として欧州の公害を調査した。
その経験を踏まえ、七○年から東大の教室を一般に開放して自主講座「公害原論」を開講。行政や企業ではなく、住民の側に立った科学を提唱、八五年までの十五年間で二万人が聴講したとされる。講義録は公害反対運動の指針として読まれ、各地の住民運動に大きな影響を与えた。
八六年から沖縄大教授。さんご礁を守る新石垣空港反対運動にもかかわり、九一年には国連環境計画(UNEP)が環境保護に貢献した個人・団体に贈る「グローバル500」を受賞した。
沖縄で環境保護のネットワークづくりを試みたほか、新潟水俣病の民事訴訟に補佐人として加わるなど「行動する学者」として知られた。著書は自主講座の講義録「公害原論」のほか「公害の政治学」「日本の水はよみがえるか」など多数。
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県内の環境保護に奔走/「行動の人」市民支え
住民の側に立った科学を提唱した沖縄大学名誉教授の宇井純さんが亡くなった。東京大学を辞職後、一九八六年から二〇〇三年まで沖縄大に在任。急速な開発で破壊が進む沖縄の自然を憂慮し、県内の環境保護活動を理論的・技術的に支えた「行動の人」だった。新石垣空港反対運動にかかわったほか、深刻化する赤土問題や畜産排水問題などに技術面から向き合い、各地で実践を進めた。
全国一律の基準を沖縄に当てはめる公共事業のあり方に疑問を投げ掛け、時に国や県などとも激しく対峙した。宇井さんの下で学んだ沖縄大職員の後藤哲志さん(37)は「いかにしたら沖縄が自立・持続できるかを常に考えていた」と指摘する。
退官時に沖縄タイムスのインタビューで、「いつの時代も、批判者は少数派だが、科学はそれを乗り越え進化してきた」と批判精神の大切さを訴えた。環境問題に取り組む市民活動を育て、関係者のネットワークづくりや県外のネットワークとの連携にも貢献した。「ちゅらさ石けん工房」主宰の仲西美佐子さん(56)=恩納村=は「環境問題に多くの人の目を向けさせてくれた。奥の深い方だった」としのぶ。
宇井さんは沖大祭最終日の十二日、学生主催の大学のあり方を考えるシンポジウムで基調講演する予定だった。主催者は健在だったころの講演のビデオを上映して、追悼する。シンポジウムは、午後零時半から同大三号館一〇一教室である。
権威に屈さず
東大時代の教え子、桜井国俊・沖縄大学長(62)の話 馬力があって粘り強く、権威に屈しない人だった。水俣病問題では、原因企業にとって“とんだ野郎”になりたいという意味を込め「富田八郎」のペンネームで論文を発表していた。宇井さんがオランダで学んできた雨水や下水の循環再利用方法が、本学の建物にも応用されている。
志継いでいく
沖縄環境ネットワークの福地曠昭さんの話 人生を沖縄にささげた人だ。「沖縄の公害問題は、米軍基地や人権問題にも通じる」と語っていた。指導を受けた者も多く、私たちが志を継いで沖縄の環境問題を掘り下げなくてはならない。
久茂地川フェスティバル実行委員の崎山正美さん(57)=糸満市=の話 水問題に取り組む中で、刺激を受けたことはたくさんある。赤土問題では、発生源から小まめに対策していく愛知県・矢作川の事例を紹介してもらい、突破口が開けた。
水俣病患者の会会長浜元二徳さん(70)=熊本県水俣市=の話 とても物腰が穏やかで、患者の苦しみをよく聞いてくれる人だった。わたしたちを率いて一九七二年にストックホルムで開催された国連人間環境会議に乗り込み、水俣病問題を強く世界に訴えてくれた。
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宇井純
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宇井 純(うい じゅん、1932年6月25日 - 2006年11月11日)は、公害問題研究家。沖縄大学名誉教授。元東京大学工学部都市工学科(衛生工学コース)助手(実験担当)。東京都出身。
1956年、東京大学工学部応用化学科卒業。日本ゼオンに勤務した後、1959年に東京大学大学院工学系研究科に戻り、応用化学科、土木工学科に所属し、1965年に新設の都市工学科助手となる。
従来の科学技術者の多くが公害企業や行政側に立った「御用学者」の活動をしてきたと批判し、公害被害者の立場に立った視点を提唱し、新潟水俣病の民事訴訟では弁護補佐人として水俣病の解明に尽力するなどの活動を展開した。 ペンネームとして富田八郎(よみは「とみたはちろう」、または「とんだやろう」)を用いたことがある。
1970年より、公害の研究・調査結果を市民に直接伝え、また全国の公害問題の報告を現場から聞く場として公開自主講座「公害原論」を東京大学工学部82番教室にて夜間に開講。 以後15年にわたって講座を続け、公害問題に関する住民運動などに強い影響を与えた。こうした活動は大学当局にとっては非公認の活動であり、都市工学科の内部では「万年助手」の地位にとどめられる。外部からは、同時期に都市工学科の万年助手であった中西準子とともに「東大都市工学科の良心」とみなされることもあった。
1986年、21年間にわたった東大助手の職を辞し、沖縄大学法経学部教授に就任。沖縄の環境問題をはじめとして世界的な環境問題に取り組むとともに、公害論の授業(月曜日2コマ及び6コマ)を担当した。 また公開ゼミナール「沖縄の水」(月曜日7コマ)では、実践的環境公害問題研究を行っていた。このゼミナールは学生から、「限りなく体育系」と呼ばれていた。
2003年、沖縄大学を退職し名誉教授の称号を授与された。
2006年11月11日、胸部大動脈瘤(りゅう)破裂のため、東京都港区の病院で死去した。74歳。
[編集] 主な受賞暦
1973年 毎日出版文化賞(公害原論講義録の出版に関して)
1980年 スモン基金奨励賞
1991年 国連開発計画「グローバル500賞」
[編集] 主要著書
『公害の政治学 水俣病を追って』(三省堂新書 1968年)
『公害原論』(亜紀書房 1971年)
『大学解体論』(生越忠との共著 亜紀書房 1975年)
『キミよ歩いて考えろ : ぼくの学問ができるまで 』(ポプラ社 1997年)
『谷中村から水俣・三里塚へ : エコロジーの源流』(編集 社会評論社 1991年)
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薬害批判の先頭に立った高橋晄正さん(83歳)逝去。(04/11/10掲載)
医学・薬学問題の評論家で、薬害批判の先頭に立ってこられた高橋晄正さんが11月3日、心筋梗塞で逝去された。享年83歳。
高橋さんは、1970年、「薬を監視する国民運動の会」と言う市民団体を設立、厚生省の薬事行政などを批判する活動をつづけたが、1973年5月3~4日には、東京・全逓会館で開かれたベ平連主催の「〈ベトナムに平和を〉市民会議」(全国から250人が参加)に出席、アリナミンなどの有害薬や石油タンパクの野放し状態について鋭い告発の報告をされている。
著書には、『新版 からだが危ない―身辺毒性学』 (1991/11 三省堂)、『薬品食品公害の二〇年―「薬のひろば」活動の記録 シリーズ市民の活動 (9)』(1993/03 松籟社)、『新しい医学への道―現代医学の矛盾』(1994/01 紀伊国屋書店)など多数。
投稿者 akiuchi : December 3, 2006 10:59 PM