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December 24, 2006
まず隗より始めよ
医療系のMLに現在の医師不足を解決するには「まず隗より始めよ 」ということを厚労省の役人または政治家に理解させなければならないということが書かれていた。今現在いる人材の労働条件を良くして有効に使えということらしい。確かにわれわれ産婦人科を始めとして小児科、麻酔科、救急医などが冷遇されている現状を改めないと人材は集まらない。
まず隗より始めよ
一般的には「まず身近なことから始めよ。また、物事は言い出した者から始めよということ」の意味で使われています。ところが原義は全然と言っていいほど違っていることは漢 文のお好きな先生には周知のことでしょうし、詳しい辞書には触りの部分は出ています。
出展(戦国策)にあたると、紀元前に記されたことなのに、現代においても全く色褪せない深い智恵に感嘆します。そのまま引用すると長いので、略してみると・・・
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内乱に乗じて斉に攻め込まれて敗れた燕の国を立て直そうと新たに即位した昭王は、国力を回復させるために賢者を招こうと考え、自国の郭隗を訪ねて相談した。
隗は、
「帝者たる者は師とともに、王者たるものは友とともに、覇者たるものは臣とともに、亡国者たるものは僕役(奴隷)とともにあります。自ら謙虚に膝を屈して賢者から学ぼうと すれば、自分の百倍の才を持つ者がやってきます。相手より先に働き始め、あとから休み、相手の意見を聞くようなら自分の十倍の才能を持つものがやってきます。しかし、椅子 に腰掛けたまま杖によって流し目で指図するようなら雑役人がやってきます。もしも怒りにまかせて叱責するようなら奴隷のような者しか来ません。」
昭王は、「では、いったい誰を訪ねればいいのですか」と問い返した。
隗が答えるには、
「誠に士を致さんと欲せば、先ず隗より始めよ。隗すら且つ、つかえられる。いわんや隗より賢なる者をや。あに千里を遠しとせんや(本当に賢人が欲しいのなら、まず隗より始 めよ。隗ごときの者が厚遇されるのであればと、さらに優れた人材が自ら千里の道程も遠いと思わずにやってくるでしょう)」
昭王は隗のために立派な邸宅を築き。師として仰いだ。それを聞いた諸国の賢人がぞくぞくと燕の国に集まってきた。
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優秀な人材が欲しければ、まず自分(既存の人材)を優遇せよ、ということです。
昭王を、厚生労働省あるいは国民に読み替え、人材を小児科医、麻酔科医、産婦人科医、救急医に読み替えてください。
燕 (春秋)
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燕(えん 紀元前1100年ごろ - 紀元前222年)は中国に周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在した国。戦国七雄の一つ。河北省北部、現在の北京を中心とする土地を支配した。首都は薊(けい)。
戦国時代中期の北方目次 [非表示]
1 歴史
1.1 燕の建国
1.2 燕の興隆
1.3 燕の滅亡
2 外部リンク
[編集] 歴史
[編集] 燕の建国
燕の始祖は周建国の元勲である召公奭(召の公である奭の意 しょうこうせき)(奭は大の字の両脇に百)である。しかし周代初期の燕については解らない事が多く、実際には召公の建てた国ではないのではないかとの説もある。
春秋時代の燕については史書には記述が非常に少ない。北方の山戎に攻められた時に時の君主・燕の荘公は隣国の覇者・斉の桓公に援軍を乞い、山戎軍を撃退したことがあった。この戦いの後、燕の荘公は桓公に感謝の意を表する為に斉まで桓公の軍を送っていった。その際に軍は燕と斉の国境を越えて斉国内に入ってしまっていた。その当時の通念上、自国まで軍を見送らせることができる者は、天子(いわゆる周王)しかおらず、それについて時の名宰相・管仲に指摘された桓公は一部自領を切り取って燕に授けたという。これにより桓公は諸侯の信頼を集め、益々名声をあげたとされている。記述が少ないのは、燕と中原との間に周に服属しない民族が多数いたために情報が届かなかったためと思われる。
戦国時代に入り、紀元前323年に王(左飛)を名乗るようになった。二代目王の噲(檜の偏を口に変えた字)は宰相の子之を盲信し、堯舜に倣うと言って禅譲を行い、これにより国内は騒乱状態となった。ここに斉が付けこみ、兵を出して侵攻し、一時は滅亡状態となった。その後、太子平が子之を倒して、斉軍も撤退したので、太子は即位して昭王となった。なお太子平は子之に殺されたという説もあり、昭王は趙の武霊王が擁立した公子職という説もある。
[編集] 燕の興隆
昭王は燕を亡国寸前まで追い込んだ斉を深く憎み、いつか復讐したいと願っていた。しかし当時の斉は秦と並んで最強国であり、燕の国力では非常に難しい問題であった。昭王は人材を集める事を願い、どうしたら人材が来てくれるかを家臣の郭隗に聞いた。郭隗の返答は「まず私を優遇してください。さすれば郭隗程度でもあのようにしてくれるのだから、もっと優れた人物はもっと優遇してくれるに違いないと思って人材が集まってきます。」と答え、昭王はこれを入れて郭隗を師と仰ぎ、特別に宮殿を造って郭隗に与えた。これは後世に「まず隗より始めよ」として有名な逸話になった。郭隗の言う通りに燕には名将楽毅・蘇秦の弟蘇代など続々と人材が集まってきた。これらの人材を使い、斉包囲網を形成し、紀元前284年に楽毅率いる五ヶ国連合軍が斉軍を大破し、更に楽毅は斉の首都臨淄を陥落させ、莒(キョ)と即墨を除く斉の都市を占領した。
一躍、表舞台に躍り出たと思った燕だが、昭王が死に、子の恵王が即位すると楽毅を疑って趙に走らせてしまった。占領していた斉は楽毅がいなくなると田単によってあっという間に取り返された。
[編集] 燕の滅亡
その後は秦が圧倒的に強勢となり、紀元前228年に趙が滅ぼされると、燕は直接秦の圧力を感じる事になった。この状況を覆そうと太子丹は秦王政に対して荊軻と言う刺客を送ったが失敗し、激怒した政に燕は攻められて、首都は陥落した(紀元前226年)。太子丹は殺され、王は遼東に逃れたが、紀元前222年に秦の王賁将軍に攻められて王が捕虜となり、燕は滅んだ。
燕都・薊城の遺蹟は北京市宣武区に所在する
投稿者 akiuchi : December 24, 2006 10:46 PM