« 生殖医療 法整備に現場の声、必要 森崇英(寄稿) | メイン | 農村で尽力・若月俊一先生逝去に思う »
December 01, 2006
徳田前議員が難病を告白
特洲会の虎田徳雄氏に会ったのは大学を卒業する1980年の春。東京の本部事務所で面接をしてもらった。握手をされた手が外形に似合わず妙に柔らかかった。結局徳洲会とは縁がなかったが、あれから26年が過ぎたのだと思うと感慨深いものがある。それにしてもあのエネルギッシュな徳田虎雄氏が4年も前から難病のALSで闘病中とは人生何が起こるかわからない。そういえば当時徳洲会の徳田虎雄氏とともに医学生のカリスマだった長野の佐久病院院長・若月俊一先生が今年の8月に逝去された。改めてご冥福を祈りたい。
**********
徳田前議員が難病を告白 人工呼吸器付け、あいさつ
06/11/30
記事:共同通信社
提供:共同通信社
ID:408593
前衆院議員の徳田虎雄(とくだ・とらお)氏(68)が29日、全身の筋肉が動かなくなる進行性の難病、筋委縮性側索硬化症(ALS)にかかり闘病中であることを、横浜市で開かれた患者団体「日本ALS協会」の設立20周年記念式典に参加して告白した。
徳田氏は車いすで秘書らに伴われ、壇上へ。人工呼吸器を付けており会話はできないため、事前に用意した文章を一文ずつ指さし、秘書が代読。「駆け出しの患者です」と切り出し「人生は苦しいことが多いほど豊かになる。神はぼくをもっと幸せにするためにこの病気を与えた」などと笑顔を見せた。
その後、会場を回り患者一人一人と手を握り合った。
医療法人徳洲会によると、徳田氏は2002年春に発症。その後、症状が進行して自発呼吸が難しくなり、気管切開をして人工呼吸器を付けた。徳洲会理事長の職務をこなす以外はここ2、3年、人前に出ることはなかったが、この日はほかの患者に会いたいと思い立ったという。
自由連合代表だった徳田氏は、04年2月ごろから病気を理由に療養し、昨年8月に政界引退を表明した。
「農民とともに」若月俊一さん 佐久で「お別れの会」 3200人献花=長野 読売新聞 2006年10月8日(日)
佐久総合病院(佐久市臼田)の院長、名誉院長、総長、名誉総長を務め、8月22日に死去した若月俊一さん(享年96)の「お別れの会」が7日、県厚生連と同病院、若月家の合同葬として病院教育ホールで行われた。
白菊で浅間山をかたどった祭壇には、遺骨が安置され、遺影が飾られた。仏式による葬儀に続き、一般住民や現役・OB職員ら約3200人が献花した。式典には各界代表350人が参列、村井知事が「先生は農村医学という新しい分野を確立され、本県の健康長寿の基礎を築いてくれました。全県民と共にご冥福(めいふく)を祈ります」と弔辞を述べた。若月さんが作詞した病院歌「農民とともに」の合唱も披露された。
付属看護学校体育館に会場を移した「御斎(おとぎ)の席」では、思い出のビデオが上映される中、故人がこよなく愛した酒を酌み交わし、みんなで「農民医療の父」をしのんだ。
[追悼抄]8月 佐久総合病院名誉総長・若月俊一さん 農民と共にある医療
◇わかつき・としかず(8月22日、肺炎で死去、96歳)
農村医療の先駆者は、自分が育てた長野県佐久市の病院で眠るように最期を迎えた。遺言から、遺体は病理解剖された。「『後輩に少しでも執刀や所見の経験を』という配慮でしょう。とても厳粛でした」と、主治医だった北沢彰浩・地域ケア科医長(41)。遺体が院内に安置されると瞬く間に、“教え子”ら1500人が列を作った。
東京出身。学生時代、マルクス主義に傾倒した。同じ病院で老人保健施設長を務める長男、健一さん(65)は「医療の民主化、平等への思いが強かったと言っていた。それが農民の救済へと駆り立てたのでしょう」と振り返る。
東京帝大医学部を卒業してから9年後の1945年(昭和20年)3月。恩師の勧めもあり、この地に来た。
当時、入院患者は病院の廊下で炊事をしていた。疎開者は食べ物がなく苦労していると知り、戦後すぐ保険を使った給食を始めた。
医者を呼ぶとカネがかかる。我慢する。そして手遅れに。「それでは」と、牛車を押して出張診療を始めた。旧八千穂村(佐久穂町)では59年、約1200世帯6300人すべての診察カードが作られ、定期健診が始まった。村の衛生指導員だった出浦経幸さん(72)は、「どんな家にも飛び込む気さくな先生だった。冗談を言っては笑わせていた」と懐かしむ。
健診の取り組みは全国に広まった。
日本農村医学会を設立し、後継者の育成にも傾注。院内で体験を語る「若月塾」は、92年から26回を数えた。赴任翌年から院長を務め、3人だった医師は約200人、病床約1000の医療機関に発展させた。
「大将は才覚ある実業家、かつ優秀な政治家だった。それが病院長の仕事に幅と厚みを持たせた」。同じ長野県厚生連傘下の北信総合病院元院長、清水善次さん(83)はそう“診断”する。
そんな若月さんに、「何ともタフ」とうならせる習慣があった。宴会で酒を飲んだ後の午前2時、3時、病院の自室に戻り、立って原稿を書いた。「座ると眠くなる」。90歳ごろまで続いた。
98年に名誉総長となって一線を退いてからも病院に折に触れて顔を出し、後輩を見守り続けた。2年ほど前から体調を崩し、昨年10月の学会の宴席が公の場での最後の姿となった。
著書は若手医師をとりこにした「村で病気とたたかう」など22冊にのぼった。ヒューマニズムを貫き、色紙を求められると、「健康は平和の礎」と記した。
10月7日、最後のお別れ会が病院で開かれる。列には旧八千穂村民も加わる。(長野支局 新開収)
写真=佐久総合病院の名誉総長に就任した際、パーティーで看護師らに囲まれる若月さん(1998年4月撮影、同病院提供)
[読売新聞 ]
写真=白菊で浅間山をかたどった若月さんの祭壇に、大勢の人が献花に訪れた
[読売新聞 ]
悼:佐久総合病院名誉総長・若月俊一さん=8月22日死去・96歳
◇「平等な医療」精神残し--若月俊一(わかつき・としかず)さん
「山の中の医者で一生を送る」。終戦間近の1945年3月、35歳の青年医師はそう誓い長野県の農村へ赴任した。農村医療の先駆者として大きな足跡を残し、61年後の8月24日、亡きがらは、自ら作詞した「農民とともに」の合唱で病院関係者に見送られた。
当時、町工場を回って実施していた労災調査に治安維持法違反の疑いがかかり、約1年の拘置から解放されたばかり。心身共に疲れ切っていた時に、恩師の東京帝大付属病院教授が出した助け舟が「信州の農民のために働く気はないか」。開設間もない臼田町(現佐久市)の佐久病院(現佐久総合病院)勤務だった。
「農村では小作人の立場になる。演説はしないで演劇をやること」。敬愛する宮沢賢治の教えを実践した。悪くならない限り医者にかかろうとしない農民のために、牛車などに医療器具を積み込んでは農村を回り、あぜ道でも診療を続けた。医師や看護師と創作劇を演じながら、啓発を図り、農村に必要な医療を模索した。
そして生まれたのが「予防は治療に勝る」の信念だった。59年に人口6350の八千穂村(現佐久穂町)で健康管理事業を始める。
15歳以上の全員を対象に集団健診を実施。血圧など基礎データのほか、食生活などを記入した個人個人の健康台帳を作った。村民には健康手帳を配り、自ら日々の状態を記入させた。病気の早期発見につながって医療費軽減にも役立ち、試みは後に全国へ広がった。
医療の一線を退いても「初心を忘れてはならない」と患者との対話を重ね、その時間を大切にした。自ら創立した日本農村医学会では、昨年10月の長野県軽井沢での学会にも参加。公の場での最後の姿となった。
どこでも平等な医療を受けられることを実践した「若月精神」。手塩にかけた病院は、当初のベッド数20床足らずから、1000床を超す総合病院となり、最先端医療導入を目指して移転計画を進めている。
苦楽を共にした松島松翠・名誉院長は「若月精神を風化させてはならない。その精神をどう発展させていくか、議論する必要がある」と決意する。【藤澤正和】
[毎日新聞 ]
[編集手帳]信州に上医あり…若月俊一さん逝く
全国的にどれだけ知られているか、それぞれの地名にも有名無名の差はある。佐久総合病院は間違いなく信州・佐久地方の知名度を上げたものの一つだろう◆同病院名誉総長の若月俊一さんが96歳で亡くなった。会見した長男の健一さんは「酒宴で思い切り飲み、みんなと大いに語り合うのが大好きだった」と語り、夏川周介院長は「道理から外れたことに対しては、徹底して怒った」と追想した◆同病院の医師で芥川賞作家の南木佳士さんが若月さんの評伝「信州に上医あり」(岩波新書)を書いている。多くの職員とともに、農村医療と言えば佐久を連想するほどの病院を築き上げた秘密がよくわかる◆「若月の発想の原点は常に住民のニーズにある。地域住民の求めに応じてきた結果、佐久病院は自然に大きくなっていった」という一節がある。農民の悩んでいることなら何でも取り上げたという◆様々な医療問題が噴出しているが、厚生労働省は住民の願うような制度作りをしているか。病院や医師の仕事ぶりは、どうだろうか。そんなことを考えさせられた◆島崎藤村も堀辰雄も「佐久ぐらい、雲の美しい所はない」と言ったという若月さんの文章も紹介されている。東京が故郷だった若月さんは、きっとそうと信じつつ千曲川流域のこの土地で生涯を全うしたのかもしれない。
[読売新聞 ]
若月俊一さん死去:「道切り開いた人」--佐久総合病院の南木医長 /長野
生涯を農村医学の発展に尽くした佐久総合病院の若月俊一名誉総長が22日、96年の生涯を閉じた。若月さんの評伝「信州に上医あり」などを著した同病院内科医長、南木佳士(本名・霜田哲夫)さん(54)に、若月さんの素顔を語ってもらった。【藤澤正和】
私は、若月さんの著書「村で病気たたかう」(71年、岩波新書)を読み、「そんな理想的な病院があるのか確かめたくて」、77年から勤務した。すでに病院は農民とともに歩む医療現場として、全国に知れ渡っていた。若月さんは強烈な個性を持ち、いくつもの顔を持っていた人。俗っぽくもあり何とも言えない魅力的な人だった。
小説「ダイヤモンドダスト」で芥川賞を受賞した私を若月さんは部下というより作家と見てくれた。ご自身も文学をやりたかったが、「文学では飯が食えないから医者になった」と話していた。芥川賞をとった時、「東京にいなくてもちゃんと出来るんだよな」と喜んでくれた。
「農村医学をやってきた先生は、実際に田んぼに入ったことがおありですか」と意地悪な質問をしたことがある。正直に「1回だけ」とおっしゃられた。地域に同化して小さな医療をやる人もいれば、周囲を啓蒙して大きなことをやっていく人もいる。先生は後者の典型だった。
細部にこだわらず、大きな木を切り開いて先に進む。後に続いて道をならす実務は、私たちより上の引退された優秀なスタッフが支えていた。私たちの世代はその遺産を受け継いでいるので、楽だったといえる。「金と人事はオレがやる」が口癖。「黒いネコでも白いネコでも、金を出すところなら、どこからでも取ってくるぞ」と言っていた。いろいろな人に魅力を持たれた人だと思う。
先生が名前を覚えていた私たちの世代は、年をとり、若月先生の時代とともに、自分もその時代の終わりを体感している。
[毎日新聞 ]
投稿者 akiuchi : December 1, 2006 06:59 AM