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December 01, 2006
農村で尽力・若月俊一先生逝去に思う
ちょっと古い話になるが今年の8月に逝去された佐久病院の若月俊一先生の印象を記しておきたい。私が佐久病院に初めて出かけていったのは1980年の夏。医学生向けの合宿に参加してそのまま12月から研修医として採用してもらって医師としての第一歩を歩み始めた記念すべき病院が佐久病院だった。産婦人科医の当直室に泊り込んで半年間。農村医学より国際保健志向が強かった私は結局自治医大を経由して国立国際医療センターへと移ってしまったがあの時の濃密な体験は今も忘れることはできない。病院をやめる挨拶をした時に若月院長にいわれた言葉は「ヒューマニズム」だった。すっかり私も老いぼれてあの当時の熱い思いは一体どこへ行ってしまったのだろうかとふと空しくなる。堕落したな~。医師不足、医師の偏在(都市集中)が問題にされる現在、僻地医療の領域で若手医師をひきつけた佐久病院の若月俊一先生の功績を再評価して日本の医療崩壊の防止に役立てなければならない。
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クローズアップ2006:誰もが受けられる医療を 農村で尽力・若月俊一さん死去 毎日新聞 2006年8月23日(水)
◇医師偏在が拡大、都市との格差深刻
農村など地方の病院や、勤務の厳しい診療科で医師不足が深刻になっているのは、若い医師の都会勤務希望や激務を避けたいという要望が原因だといわれる。22日、「農民とともに」を合言葉に、戦後の地域医療や保健活動に尽力した長野県佐久市の県厚生連佐久総合病院名誉総長、若月俊一(としかず)さん(96)が、肺炎のために亡くなった。若月さんの活動を通じて、地域医療の現状と課題に迫った。
「医学とは、人々の幸せと命を守るものだ」。若月さんは「実践医学」を訴えて、農村医療にまい進した。若月さんが設立した日本農村医学会の山根洋右(ようすけ)理事長は「誰もが身に着けている肌着のように、等しく受けられる医療の質の担保がその土台にあった。最低限の医療すら受けられなかった農民に、他地域と変わらぬ医療を提供した」と説明する。
しかし、農村など地域医療の現場では、都市部との格差が新たな問題となっている。出産や緊急時の救急医療にも対応できない病院がある。地方や勤務実態の厳しい診療科を避ける医師が増えたことが主な理由だ。
藤崎和彦・岐阜大教授(医学教育学)は「若手医師がさまざまな診療科を経験する臨床研修が(04年から)必修化されたことで、受け入れ態勢のしっかりした都会の病院に若手医師が集まり、地方の病院離れが顕著になった」と指摘する。
国は農村や離島などへき地での医師不在を解消するため、1956年度からへき地保健医療計画を立てている。ところが、勤務先をえり好みする医師の増加で、今年度から5カ年を期間とする第10次計画では、へき地周辺部での医師の確保も課題になっている。
このため、同計画では医師の確保法として▽へき地の医療機関における臨床研修の推進▽大学医学部で地域を指定した入学者選抜▽地方出身者に対する大学医学部の修学資金の貸与――などを挙げている。
こうした状況について前沢政次・北海道大教授(地域医療学)は「若月先生は自ら地域に出ていった。時代は変わったが、医師と患者が同じ人間として作り上げる、若月先生が実践した農村医療の精神を、現在の地域医療にも生かしていくべきだ」と話す。
山根さんによると、佐久総合病院と同様に、農村医療を支えてきた各地のJA厚生連経営の病院は、近隣の都市部の住民にとっても欠かせない地域医療の拠点として、病気予防の啓発や健診受診率アップなどに取り組んでいるという。山根さんは「農村医療を担ってきた病院は、その経験を踏まえつつ、都市と農村を一体にとらえた医療を進めるべきだ」と話す。【永山悦子、大場あい】
◇集団健診、評価高く--長野・旧八千穂村の高齢者ら
若月さんが始めた旧八千穂村の全村健康管理で集団健診を受けた須田琴代さん(84)は22年前、初期の胃がんが見つかったが処置が早く、再発もせずに元気で過ごしている。「健診では自分の体の状態がわかるから、安心できる。悪いところがあれば病院にかかるよう手配してくれる」と話す。佐々木のぶ子さん(70)は、この健診の最初から受診している。「この地域では風邪くらいでは病院にいかない。だから、年1回の健診は健康状態を知る上で、欠かせない」とありがたがっている。
芥川賞作家で若月さんの伝記「信州に上医あり」を描いた佐久総合病院の内科医、南木佳士(本名・霜田哲夫)さんは「若月先生は強烈な個性を持ち、いくつもの顔を持った人。周囲を啓もうして地域医療のために尽くした」と話す。【藤澤正和】
◇地域で実践、若手も育成
「若月先生を慕って長野に集い、全国で地域医療を支える医師は多い」。若月さんを師と仰ぎ、地域医療に身を投じた諏訪中央病院の鎌田實名誉院長は、そうしのんだ。
若月さんは東京帝国大医学部を卒業した後、戦時中の1945年3月に佐久総合病院に外科医として赴任した。当時は、農民たちも忙しさや貧しさなどで病院に通院したがらなかった。
このため、田畑で使う牛車に医療器具を積み込んで周辺の村々を訪ね歩く出張診療を行った。医師が出かけて寄生虫駆除やけんしょう炎などを治療するこの「農村医療」を確立した。また、病院職員が演劇や人形劇をして、病気の予防知識を普及させるユニークな取り組みを行った。
59年からは「予防は治療に勝る」として、近隣の旧八千穂村(現在は佐久穂町)の「全村健康管理」を実施した。15歳以上の村民を対象に、健康診断を実施するだけでなく、一人一人の健康台帳を作成。健診だけでなく、生活ぶりや環境要因なども記入した。さらに、村民に健康意識を持たせるため、各自が記入する健康手帳も取り入れた。
この方式は、長野県全体に広がり、さらに全国のモデルになった。若月さんの考えを慕う若手医師は佐久総合病院に集い、80年に地域医療研究会を設立するなど全国各地で今も地域医療を実践している。
鎌田名誉院長は「若月先生が実践した地域に出かけていく医療は住民の健康づくりを促すものだったが、その考えは今、日本が直面しているお年寄りを支える在宅医療にも生かされる」と話している。【山本建】
◇「象牙の塔」脱し、患者と向き合う--日野原重明・聖路加国際病院理事長の話
若月先生は「象牙の塔」ではなく、在野で日本の農村医学を確立した。常に「実践」の人だった。大学で進められる理論中心の医療ではなく、患者と向き合う中でそのニーズにあった医療を作り上げていった。大学では学生運動が激しかった時代も、農村の医療を向上させようとする在野の若月さんの取り組みは中断することがなかった。
若月さんは予防から治療、リハビリテーションまでの一貫した医学を作り上げ、この日本の農村医学は、世界でも注目されるようになった。また、人格的にも非常に優れた人で、若い人が若月先生の下に自然と集まり、佐久を農村医療のメッカに育てた。
[毎日新聞 ]
投稿者 akiuchi : December 1, 2006 07:24 AM